女は走った。
 息が切れて、足がもつれて、走って走って走って――逃げる。

 道は舗装されていないただのあぜ道。
 女が履いているものは下駄。なおかつ纏っているのは着物であった。
 洋服に慣れていた者がそのような格好で速く走れるはずも無い。

 それでも女は走った。
 結い上げられた黒い髪は乱れ、美しい着物の合わせが肌蹴ても構わず走り続けた。

(このままゲートが開く時間、やり過ごせば……逃れられる……!)

 息が切れて、肺が思うように酸素を運ばなくなっても、女にあったのはその思いのみ。

 なぜ、逃げるのか。
 それは今まで押し込めてきた感情が爆発した上での行動だった。

「――どこへ行く」

 かけられた言葉は唐突だった。
 どうにも息が詰まり、少しばかり休憩と足を止めたその瞬間。

「主がお前を探している。戻るぞ」

 振り返れば男が一人、立っていた。
 紫色のカソックに、纏う金色が揺らめく。
 鈍い色の髪の間から覗く目は、まるで女を刺し殺さんばかりにまっすぐ睨めつけていた。

「!!」

 最初からそこにいたのではないか。
 そう思わせる位、男は自然に立っていた。

 へし切長谷部。
 それがその男の名だ。
 女は長谷部を見るなり身を翻し駆け出した。

(掴まれば終わる!)

 なんとか逃れようと懸命に走るが、思いとは裏腹に女の足は限界を迎えていた。
 それもそのはず、女はこの数ヶ月外に出ることを許されていなかったのだ。
 籠の鳥のように部屋に囲われていた女の足は、今やがくがくと震えている。
 走るというよりは歩くと言ったほうが当てはまる、そんな女の前に長谷部は容易く回りこんだ。

「手間をかけさせるな」

 白い手袋を纏った死神にも見える手が伸びてくる。
 女は避けようとしてそのまま、ぐしゃりと座り込んだ。

「みっ見逃してください! お願いします! お願いします……!!」
 
 ほぼ土下座のような格好になりながら女は訴えた。
 しかし、

「わかっているだろう。逃げられるわけがない。……大人しく戻れ」

 長谷部が片腕を引っ張れば、当たり前に女は抵抗した。……弱弱しい力だった。

 長谷部は鬱陶しそうに来た道を戻ろうと翻る。
 女が胸元に手を入れる様を見もせずに。

「――な」

 振り向いた時にはすでに遅かった。
 刺された。
 視線を下に下ろせば長谷部の白いシャツがじわじわと赤に染まる。
 思ってもいなかった反撃に腹を押さえれば鋭い痛みが走り、長谷部は顔を歪めた。

「お、前――!!!!」

 女は鋏を持って震えていた。
 裁断用の大きめな鋏。その先は血で塗れている。
 言うまでも無い。長谷部の血だ。

 籠の中で手慰みにと『誰か』がくれた裁縫箱。
 その中に入っていた鋏を女は隠し持っていた。
 いや、隠していたのではない。
 鋏を使えばできたというのに、自決することも暴漢に突き刺すこともできず、ただただお守りのように女は持っていた。

 その鋏を女は『初めて』使った。

「あ、あっ……う」

 明確な言葉も出せず真っ青になりながら、ぶるぶると震える手をそのままに女は走る。

「待て!」

 長谷部にとって幸運にも傷は見た目に反してそれほど深いものではなかった。
 つまり、容易く女は捕らえられた。

 女は両手を掴みあげられながら叫ぶ。

「嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だ! 私は私のいたところに帰りたいだけなのに! どうしてあいつなんかと! 離せ!」

 女は首を振りながら、まるで適わない力の差に、悲鳴によく似た抗議の声を上げる。

「うるさい! 抵抗するな!」

 血塗れの鋏を取り上げようと長谷部が両手首を締め上げれば、女は呻いて涙を零した。
 ばたぼたと流れる涙に構わず長谷部は更に力を込める。
 女はぎりっと歯を噛むと長谷部を睨みつけ、呪うように吐き出した。

「……あんたなんか最低の刀だ。……あんたの主もくずだ。ここのやつらは皆クソだ! 神様の癖に!」

 長谷部の手から力が抜ける。
 しかし、その一瞬が過ぎた後怒号が女を襲った。

「お前が! 来たからだ!!」

 顎を掴み上を向かせると、先ほどよりも強いそのまま折ってしまいそうな力でもって長谷部は女を締め上げた。

「お前のせいで主は変られた! お前さえ、いなければ……!!」

 呻くことも許されず、女は苦しみにもがく。

 ぎりぎりとまるで鬱憤を晴らすかのように力を込めると、長谷部の手に涙が伝う。
 雫は手袋にじんわりと染みを作った。
 女と長谷部の間にまるで潤滑油のようにじっとりと広がっていく。

 それに長谷部が気づいたのは、左手袋がほぼ濡れたころだった。

「私だって、好きでこんなところに来たわけじゃない……! わかってたなら絶対に来なかった! ……なんで、なんで! なんで!! ……帰りたい」

 ぐしゃぐしゃに顔を歪めて泣いていた女は、長谷部が手をはずすと崩れ落ちてむせび泣く。

 ――女は、ごく普通の一般市民だった。
 いつも通り通勤し、仕事を終えて帰る。
 普通の日を普通に過ごす。
 ただそれだけの平穏な毎日であったのに、その日だけは普通であることを許さなかった。

 何がきっかけだったのかはわからない。
 どこから変っていたのかさえも曖昧な状態で、女は見知らぬ土地に放り出されていた。

 親切な世界ならば丁寧に教えてくれるだろう。
 しかし世界は女に何も与えはしなかった。
 古い城下町のような趣のある建物が並ぶ通りに、一人だけ異質な物が混じる。
 それに誰も気づかない。
 当たり前だ。
 建物は古くてもそこにいる人々は多様な格好をしている。
 女は容易く埋没したのだ。

 道を、地名を、時代を。
 女は幾人にも尋ねて歩いた。
 だが誰に聞いてもすべて答えがバラバラで要領を得ない。

 困り果てたその時に現れたのが長谷部の主だ。
 親切な男に天の助けと思った女は幸いとその男の本丸へと足を踏み入れた。
 しかしいざ蓋を開けてみれば、その男は親切でもなんでもない、ただの屑だった。

「だれもたすけてなんかくれない。かみさまだってたすけてくれない。叫んだって泣いたって声すらかけない。本当に最低」

 そうでしょう。

 最後は吐息だけで、女はかすかに笑った。
 その視線の先には血濡れの鋏が地面に横たわっていた。

 女が鋏を見ていることに気づいた長谷部は、二度と手にさせないよう踏みつけながら吐き捨てる。

「甘えたことを抜かすな。そこまでいうならなぜ死なん。さっさと死ねば楽になっただろうに」

 女はゆるゆると顔を上げた。
 その顔は涙に濡れ、先ほど掴まれたところが不自然に赤く染まり、痛々しい限りだった。
 しかし、黒い髪が垂れかかるつぶらな瞳はなぜか輝いていた。
 なんの穢れも知らないような、さも今気がついたといわんばかりなその視線はまっすぐに長谷部を射抜く。
 長谷部の心臓は、ずくりと嫌な音を立てた。

「なら、殺してよ」

 長谷部は想像していたとおりの言葉に女を睨みつけるが、次に女の繰り出した言葉に僅かばかり目を見開く。

「貴方にとってみれば簡単でしょ。いつも不愉快そうにしてたじゃないですか!」

 解り切ったことだった。
 逃げ切れることがないことくらい。
 それでも女が逃げたのは、己からすべてを奪おうとしている男へのせめてもの抵抗だ。

 なら、最後くらい抵抗してやる。

 女はとてもいいことを思いついたと言わんばかりに笑った。
 上げた頬につられて涙がぼろりと滴り落ちる。

「何の」

 事だ、と続けることを長谷部は許されなかった。
 女が声を出して笑ったからだ。

「白々しい! いつも目が合ってたじゃない!!」

 女はよほど面白かったのか、声を抑えもせずに笑う。
 ひとしきり笑い終えた後、

「変態」

 睨みあげながら女は言った。

 + + + + + + + + + + + 

 事の発端は些細なことだった。
 主が女を連れてきた、ただそれだけの話で終わるはずだった。

 女は言うなれば迷い人だった。
 ただの人である上にどこから来たのかもわからない女の境遇に同情した主は、大層世話を焼いた。
 現世を懐かしんでいたのかもしれない。
 主が手ずから世話をすることで女は割合早く本丸に馴染んだ。
 ともすれば刀剣とも仲睦まじく過ごすようになり、本丸は春が来たかのように穏やかになった。
 短刀と笑い合う女はまるで花の様だとどこかの脇差が言ったものだ。

 しかし、それはある日を境に変った。

 主が女を寝所に連れ込んだのだ。
 ある日突然、なんの前触れもありはしなかった。

 夜を真二つに裂くような悲鳴の上がった夜を知らない刀剣は居ない。
 その夜から、女は表に出なくなった。

 そして晴れやかな顔をして主は言ったのだ。

 『結婚する』と。

 それを境に主は変わった。
 元々柔らかい話し方をする気性の優しい御仁であったのに、今では陰湿そうに背を丸め話す端々に皮肉が混じるようになった。
 なにもかもを警戒するように周りを濁った目で睨みつけるようになり、命令も増えた。

 可哀想だと女に同情する刀剣も居たが、あまりの主の変貌に女のせいだと蔑むようになった者も少なからずいた。
 長谷部は後者であったが、それを表に出すことはなかった。
 近侍だったからだ。

 主は女を妻にすると言った。
 仕える者として長谷部に異存は無い。
 古くからそういうものであるからだ。
 臣下が意を唱えるべきことですらない。

 長谷部はただその思いだけで主に仕えた。
 たとえ腹の奥底ではぐらぐらと煮だった苛立ちが固まりになって溢れそうになっていたとしても。

 近侍部屋は、主――審神者の部屋に直結されている。
 襖でさえぎられているだけだ。

 主は女を部屋に囲った。
 部屋からは庭が見え、四季折々の景色で本丸の主を楽しませるように図られていたのだが、女をそこに閉じ込めるようになってからは一度として開けられたことは無い。

 へし切長谷部と言う刀は、実に忠義に厚い男だった。
 悲鳴や打音で煩かろうが、襖が少し開いていようが――そこでどんな理不尽なことが行われているのか知りながら決して主に異議を申し立てなかった。
 次第に主は見せ付けるかのように振舞い始めたが、どれだけ見せられても近侍である長谷部は反応を示さなかった。

「貴方はただ見てるだけだった。……声すらかけなかった」

 女は反吐が出そうだとでも言いたげに顔を歪ませる。

 ただ、視線が合うだけ。

 それは苦痛極まりない行為であった以上に、女を絶望に叩き落した。

「毎晩毎晩毎晩毎晩。とんだ悪趣味ですよね。本っ当最低……ああ、このまま帰ったら襲われたとでも言いましょうか。そしたら貴方、刀解されるのでは?」

 女はこれ以上面白いことなどないというふうに笑うが、長谷部はさして驚かない。
 だが誤魔化すためか拳は固く握られていた。

「そんな法螺、主が信じるものか」

 女は馬鹿にしたように笑った。

「信じますよ! わかるでしょう! 私に裁縫箱をくれたあの子を! ただ手が触れたというだけで刀解したひとですよ!」

 幾分、苦味が勝ったような顔で長谷部は歯をかみ締める。
 その様子は女にとって笑いの種にしかならなかった。

「そんな顔するなら早く殺せばいいじゃないですか。むしろそのほうがあの人のためなんじゃないですか? 結婚したらどんな手を使ってでも不幸にしますよ私。……絶対に」

 女にとって逃げ切ることが最良だ。
 囚われたらあの男の妻として一生そばに居て、一生苦しんで、死しても同じ墓に入らなければならないからだ。
 この場で討ち捨てられたほうがどれだけマシか。

(私からすべて奪おうというなら私だって――)

 一番の臣下に情人を殺されて苦しめばいい。
 思うとおりにならないことを知ればいい。
 そして目の前の男は、そんな主に討ち捨てられればいい。

 そんな望みを抱くほど、女はすでに身も心も疲れていた。

「ほら早く。腰のそれを引き抜いて当てればいいんです。へしきりという名の由来の通りに」

 笑う女が火種になって腹立たしさが怒りに変る。

 腹の奥底が燃るかのように熱くなり、長谷部は歯を食いしばった。

(本当に殺してやろうか)

 己を殺してくれとはなんて甘えた女なのだろう。
 腹を刺したその鋏で己の首でも突けばいいではないか。

『あれをなんとしてでも連れ戻せ――!!!!』

 それが主からもたらされた命であり、それを遂行するために遣わされた自分に、「己を殺せ」と言う女を長谷部は全く理解できなかった。

 確かにこの女が死ねば心は晴れるかもしれないと長谷部は思う。
 しかし主が怒り狂うのは解りきったことだ。

(ああ、でも――)

 もうすぐ主は長谷部の主ではなくなる。
 代替わりするのだ。
 元々中継ぎであった今代の主は役目を終えて、本来の主が引き継ぐ。
 今日はまさにその引き継ぎがされる日だった。

 主は引継ぎを終えた後そのまま元居た時代へと帰る手はずになっている。――目の前の女と供に。
 女が逃げたのは、今を逃せばもう機会は訪れないと知っていたからに過ぎない。
 それを誰もがわかっていたから、女が逃げた時はどの刀剣も何も言わなかった。

(……何を考えている。さっさと女を連れて行かなければならないのに)

 次の主が来ようとも、長谷部の主であったことは覆せない。
 この女が主に犯されたのを無かったことにできないように。

 いくらか哀れだと思っているのだろうか。
 長谷部の体は微かばかりも動かない。
 女もすでに逃げる気はないようで、瞼をすっと伏せた。
 まるで死の訪れを待っているかのような風体に、長谷部はぎりっと歯軋りした。

(こんな馬鹿な女よりも主にはもっとふさわしい女がいる。元の時代へお帰りになれば、いや別の女であればあのようにはなるまい。……そうだ)

 この女だけだったのだ。
 ――腹立たしい。

 己の主を変貌させたからか。
 女の悲鳴が耳から離れないからか。

 はたまた乱れた姿が下品で吐き気を催すからか。
 愚かなこの女が逃げるから、己が借り出されているこの状況にか。

 苛立ちはそのすべてが原因のようだった。
 しかし、一方でどれもが間違っているように思えた。

 ふと女の顔から視線を下ろすと、胸部に目が止まった。
 出会った頃よりも細くなったからだのわりに、胸が大きくなっている。
 その意味することに長谷部の腹が熱くなり無意識に舌打ちした。

 己の主を堕落させ、己さえも苛立たせ翻弄する。
 長谷部は目の前の女が憎く思えた。

「!」

 すらりと手を伸ばし、首を捕らえる。
 薄く目を開いた女は抵抗しなかった。

(細い首だ。捻れば死ぬ)

 刀すら使うのも煩わしい。

 長谷部が力を込めようとしたとき、女が笑った。

 + + + + + + + + + + + 

 この本丸の初代主はそれはそれは優秀な審神者であった。
 次代の審神者も同じく能力が高かったが、初代とそりが合わず引き継ぐことを拒否し別の本丸の主となった。
 しかし勢いよく出て行った割には運が悪かったらしく、程なく戦死。

 三代目は初代の孫に当たる。審神者になることが生まれながらに決まっている子供。
 その子供は親に捨てられ祖父に育てられた。
 祖父に可愛がられ祖父の刀剣と一緒に過ごし育った。

 審神者になるべく生まれた子供は、審神者になるための英才教育を受けたが、能力は初代を超えることができなかった。

 その決定的な証は初代が亡くなって二月もたたずに起こる。
 歴史修正主義者に襲撃を受けたのだ。
 本丸は壊滅。主は死にいたり、仕える刀剣もすべて折れ、優秀な審神者の系譜が一つなくなるはずだった。

 ――その主に子供が居なければ。

 子供は赤ん坊と呼ぶに相応しく、襲撃の時刀剣と避難していて無事だった幸運な子供だ。
 そして審神者と呼ぶにふさわしい力を有していた。

 そのまま成長すれば数ある本丸の中でも指折りの名声を得ることも可能なくらい、将来に期待が持てる審神者候補であった。

 優秀な赤ん坊は優秀すぎるあまり普通はできないことをやってのける。
 自らの母の刀剣と、縁を持ったのだ。
 そのおかげで本丸の主が息絶えても、襲撃で折れなかった刀剣は残ることができた。
 本丸は維持されることとなったのだ。

 しかし、問題があった。

 優秀とはいえまだ赤ん坊である。審神者は職業であるからして赤ん坊には勤まらない。つまり審神者になることはできない。
 そして一度襲撃を受けた本丸は敵に狙われやすくなる。
 このままでは瓦解も止む無し、と言うところで白羽の矢が立ったのはその赤ん坊の叔父。

 先代の弟に当たる人物だった。

 その男はこの日、本来の主に本丸を引き継ぎ役目を終えるはずであった。

 瓦解間近だった本丸を建て直した功績と、審神者を勤め上げた者へ送られる褒章。
 それに妻を加え、大手を振って自らの時代へ凱旋する。
 そのはずだった。

「まだ見つからないのか!? 加州!!」
「……まだ長谷部が帰ってきてない。もうちょっと待と? ね?」

 男はぎりり、と爪を噛んだ。
 主に寄り添う青年の名は加州清光。彼は今代の主の初期刀である。

「くそ……さっさと連れて来い!」

 目すら合わせる事も無く、男は苛立たしげに腕に手を置いていた加州を振り払い怒号を浴びせる。
 そんな時、道の向こうから和泉守兼定の声が聞こえてきた。

「おおーい!! 長谷部が居たぞー!!」
「! 本当か!! 見つかったか!!!!」

 男は表情を一変させると足早に道を歩き出す。
 加州はその様子に振り払われた手を片方の手で押さえ、悲しげに眉を寄せながら耐えるように唇をぐっと噛んだ。
 そのやり取りを後ろで三日月宗近が目を細めて見ていたことには誰も気づきはしなかった。

「長谷部! みつかったか!?……」

 長谷部が居たその場所はいうなれば崖であった。
 すこし開けたその場所は崖の向こうに山々の美しい緑が見える。
 景色はすばらしかった。

 だが、

「……なぜ、あれの下駄がそこに」

 女が履いていた下駄がひとつ、落ちていた。

 崖に柵などない。
 地面には点々と赤い物が落ちている。

 その点を幾度か辿り長谷部を見やると男はそこではじめて、長谷部の腹部が赤く染まっていることに気がついた。

「刀解してください」

 俯いていた長谷部は、己が主に刀を見せるように掲げた。

「斬りました。申し訳ありません」

 抑揚の無い通るような声だった。
 長谷部はそのまま地面に膝をつき、頭を垂れる。

「な、何を言っている」

 男はよろめいた。
 手は震え、支えに来た加州へすがりつくように必死に掴む。

「切っただぁ? ナマいってんじゃねーよ。死体がねーじゃねーか」

 和泉守は腰に手を当て、長谷部を斜め見る。その表情はめんどくさそうだ。

「兼さん、そういうこと言っちゃダメだよ」

 腕を掴んで制止するのは堀川国広だ。

「ハサミが……落ちていますね」

 その声の主は淡々と地面を見つめながら言う。
 優雅な仕草で地面に手を伸ばすのは宗三左文字だ。
 宗三は血濡れの鋏を手に取り尖った先を見据えた。

「は、はせべ……なに、何が」

 男は近侍にすえていた刀剣の言うことが信じられなかった。
 へし切長谷部という刀は主人に忠実であり、主命に背くことなど――ましてや裏切るようなことはしないはずだと、男はこれまで信じていた。

「黙ったままじゃわかんねえだろう!」

 和泉守が長谷部の胸倉を掴み引っ張れば、頭は力なくがくがくと揺れる。
 慌てて堀川国広が止めに入るが、和泉守は長谷部の生気の無さに舌打ちをしつつそのまま突っ返す。
 呆然とした姿はまるで案山子のようだ。

「……言え」

 先に焦れたのは男のほうだった。
 無理も無い。
 己が溺れる様に情を注いだ鳥が籠の外に出たのだ。
 どこへ飛んで行ったのか、気にならないわけが無かった。

 促された長谷部はずいぶんと時間をかけ、ゆっくりと紡ぎだす。

「……情けをくれとすがりつかれました。拒否したところその鋏で腹を刺されまして、咄嗟に斬りつけてしまいました。弾みで崖から落ちていったようです」

 俯きながら告げる表情は髪でよくは見えない。
 しかし淡々と放たれる言葉に、周囲は静まり返った。

 男は聞こえた言葉を理解できなかったのか目を瞬いて「は」とだけ呟いた。

「情け……って」

 ぼそりと加州が呟く。
 その際力が抜けたのか加州にもたれる男の肩はびくりと震えた。

「切る前に連れてこいよこのバカ!」
「兼さん! やめなって!!」

 長谷部は和泉守と堀川のやり取りを他人事のように聞いていた。
 ……己の主の反応に集中していたのだ。

 男ははくはくと口の開け閉めを繰り返し、一文字に引き閉じるとぎろりと長谷部を睨みあげた。

「あ、主!!!!」

 理解すれば男の頭の中を轟々と燃え盛る火のように怒りが支配した。
 男は足を縺れさせながら長谷部に掴みかかる。
 紫のカソックを握り締め、揺さぶった。

「真実か! お前が殺したというのか! 俺のものをお前が!」
「申し訳ありません」

 長谷部の表情は何の感情も浮かんでいなかった。
 紫色の瞳だけがただ己の主を映し、その様は男を激昂に追い立てる。

「オマエェ!!」
「申し訳ありません」

 殴りかかられても、長谷部は動かない。
 殴り、蹴り、倒れさせた上で腹の傷を踏みつける。
 それでも息が上がった審神者とは対照的に、長谷部は眉を歪めるだけだった。

「……主、刀解を。主命に逆らいました。どうぞ俺を刀解してください」

 それは長谷部にとって懺悔の言葉だったに違いない。

 このまま殺してくれと、長谷部は最後に主に願ったのだ。

 苛立った男は願い通りに長谷部の首を絞めあげた。
 もう、目の前の刀を折ることしか考えられなかった。

 ぎりぎりと音を立てるのは長谷部の首だ。

 それはまるで足蹴にされて折られる刀のよう。
 男は力の限りで首をへし折ってやろうと考えていた。

 しかし――――――。

「いけないな主殿。いや、もう主ではなかったか」

 息を飲んだのは誰だったのか。

 男が声のほうをゆっくりと見れば、三日月宗近がこの場にそぐわない表情で優雅に笑っていた。

「ぐ、う!?」

 もう少しで息の根が止まりそうだという時にいきなり解放され、長谷部は咳き込む。
 構わず三日月はゆったりと男に近付くとそっと肩に手を添えた。

「そのへし切長谷部はもうそなたのへし切長谷部ではない。ここで勝手に折っては、新しい主に咎を受けるのではないかな」

 三日月の言うことは真っ当な事であった。
 今日の正午に男の刀剣だったものは引き継がれることになっている。それは決定であり、覆すことは男にはできない。

 時は正午を越えていた。

 下手にこの裏切り者を折れば、男は帰還できずに拘束されることとなる。
 男はぶるりと体を震わせた。
 そしてそのまま地に膝をついて、ぐうと唸ったかと思うと地面を握り締め震えだした。

「審神者さん、これ……」

 堀川が落ちていた下駄を差し出すと男はかき抱き泣き出した。

「……まだ崖の下にいるんじゃねーか?」
「下は水ですからねェ……でも死んでるんじゃないですか? ほら、あそこ。血が……」
「黙れよ! お前ら!!」

 加州は男に駆け寄り、慰めようと背中を撫でる。
 しかし、男は煩わしかったのか加州を突き飛ばし下駄を大事そうに腕の中にしまいこむ。

「あるじ……」

 尻を地面に付けたまま、加州の顔は歪んだ。

「審神者殿、新しい主を待たせている。立たれよ」

 三日月の声に男はよろよろと立ち上がると、ゆっくり歩き出した。
 その後を三日月が追う。

「変っちまったなァ、本当によ!」

 和泉守は最後に主だったものに聞こえるように大きく声を上げたが、男は振り返りもせず何の反応も起こさなかった。

「チッ」

 堀川はしゃくりあげる加州を起こし、長谷部に目を向けた。

「立てますか」

 長谷部はぐいっと口元を拭い、睨みつける。
 それを返事だと受け取った堀川はにっこり笑って歩き出した。

 堀川と加州の後姿を見送り、改めて長谷部は己を見た。

 ひどい有様だった。
 蹴られたのが悪かったのか、土と血が混じった物がそこかしらについて払っただけでは取れそうに無い。

「……本当に、殺したのですか。――あなたが?」

 問いかけてきたのは宗三だった。
 鋏を手の中でくるくると回し遊んでいる。
 指に刺さるように見える切っ先からは、ぱらぱらと赤黒い物が落ちていく。

「本当だとしたら、うらやましいことですね」

 まるで信じていないのだろう。
 宗三は煽るように笑ってみせるが、長谷部は沈黙を保ったまま。

 元々8人だった人数はひとり欠けたまま門に向かうこととなった。

 ――引継ぎは予定としては遅れたものの滞りなく行われた。

 別れの時が差し迫り、本丸中の刀剣が見送りに集まる。
 皆が別れを惜しむ中、近侍であった長谷部はもう二度と会うことはないというのに声を掛けることすら許されはしなかった。
 当たり前だ。
 しかし、それでも名残惜しげに主を見やれば、なぜか三日月と目が合った。

 くすり、そんな音が聞こえてきそうな笑みであった。

 長谷部は無意識に首に手を当てた。
 そのあたりがぞくりとした気がしたのだ。

 気のせいだと手を下ろした時にはすでに、『主』は本丸から去っていた。

    Thank you for clapping!


    拍手ありがとうございます! 励みになります……!

    お礼ページは下のリンクよりお進みください。(DB最新話までのネタバレあります)

    拍手お礼



     選択式感想

     お名前

     メッセージ → 返事

    刀剣乱舞