第二部 人造人間編
第四章 越える線
97 蛸
布団は柔らかい。それこそ離れがたいと思うほどに。
しかし起きねばなるまい。
もう朝なのだ。
日課となっている早朝練習をするため、のそのそと布団から這いずり出た。
昨日は部屋が少ないからとチチさんを真ん中に小の字で眠ったから、他の二人を起こさないように細心の注意を払いつつ着替える。
眼鏡を掛けて二人がまだ寝ているのを確認すると、こっそり外に出た。
上空でもいいけれど……亀ハウスと違って寒い。少し北だからかな。
どこかにいい場所があったらそこでちょろっとやって帰ろう。
そして目に付いたのは大岩が積んである山だ。
悟飯さんが運んだという大岩。そこだけ木が生えていないからとてもわかりやすい。
そこにしよ。
蔓が絡まっている岩は安定していて降り立っても動いたりはしない。
私は舞台にも見えるその岩の上で深く息を吸った。
今日で最後。
朝ごはんを食べたらCCに行く。
思えば長いこと留まったもんだ。
来た頃を思い出すとずいぶん昔みたいに感じられて感慨深い。
歌い終えると周囲の山に反響したのか余韻が長く続いた。
それを黙って聞きながら静かになったとき、ゆっくり息を吐いた。
……帰ろう。
踵を返し振り返ると、その先に思ってもいない人物が座っていた。
「あ、もう帰るんですか?」
悟飯さんが立ち上がって微笑んだ。
「いなくなったので、追いかけてきたんです。声をかけようと思ったんですが、邪魔しちゃ悪いかなと思って……ごめんなさい」
「ぜ、ぜんぜん気付きませんでした」
気配が全くわからなかった。
呆気に取られつつ言うと、目を細めて悟飯さんは微笑んだ。
「不思議な歌でしたね。聞いたことがない……他の星の歌なんですか?」
「え、ええ、まあ……」
前世の歌だとは言えない。というか聞かれていたのが恥ずかしい。
「すごく上手でした。もっと聞きたいんですけど、駄目ですか?」
「えっ」
も、もっと聞きたいだと……!
「……いや? ですか?」
下がった眉で上目使いにお願いされてしまった。
実は私、普通に聞いてもらうために歌ったことなんて今まで一度も無い。
それは種族的な話が絡んでくるのだが……セーリヤ人は皆歌が上手い。
ハーフでも上手い。
耳もいい。
もちろん私もそうだ。
しかし前世の歌は、前世の音程、曲調のまま覚えているのだ。
前世で歌ってたまま。
つまり、調律できていない。なんとなーく外れる。
それを双子に指摘されるんだ。
ええ、セーリヤ人の血を半分受け継いだ双子は、少しでも外れると「音外れた」だの「下手」だのダメだししてくる。
つまり私は、今うまれて初めて歌自体を褒められた!
う、うん。ど、どうせもう帰るしな。
恥ずかしいやら嬉しいやらで、脳内が大変なことになったが私は大きく息を吸った。
期待のまなざしをこそばゆく感じながら空に向かって音を連ねる。
最後の音が余韻になって消えたとき、響いたのはパンパンパンという破裂音だった。
「やっぱりサーヤさんはすごいや。歌手みたい」
手を大げさに叩きながら悟飯さんは笑った。
「か、歌手のほうがうまいです」
過分な褒め言葉に頬が赤くなったのがわかった。
「そんなことないのに」といいながら悟飯さんは歩きだす。そして私のまん前に立つと視線を合わせた。
「サーヤさんは……今日帰ったら、またここに来ますか?」
「ここって、過去に来るかってことですか?」
こくんと頷いた悟飯さんの顔は先ほどとは一転し、顔は真剣な顔に変っていた。
……大変申し訳ないが、来るつもりはない。
意味がないし、いたずらに未来を変えてしまいそうだ。
「それは――、その、私はもう……」
『来るつもりはありません』とは、言えなかった。
言いよどむほどに悟飯さんの顔が泣きそうに歪んだから。
「ご、ごめんなさい……」
つい謝れば、悟飯さんは首を横に振った。
「いいんです。いいんですけど、それなら僕は……僕のことを忘れないでいてくれますか?」
「わ、忘れませんよ! 忘れるわけないじゃないですか!」
口にすれば悟飯さんは破願した。
「本当に? ずっと、覚えててくれますか?」
当たり前だろう。
「未来に帰ったら悟飯さんは生き返らせるつもりですし、忘れませんよ」
普通に思ったことを言葉にした。
しかし音になって伝わったであろう瞬間、悟飯さんの表情が一変した。
呆然といったふうに目を見開いたまま、凍りついた。
何度か口が動いて、でも言葉は出なくて……俯くとぼそりと呟いた。
「ちがう」
その瞬間、ざわっと肌を撫でたのは風だったのだろうか。
「なにが、でしょうか」
震えたのは声だった。
多少なりとも怯えが混ざったのは仕方ないことだろう。
――悟飯さんの周りが、揺らいで見える。
「……その世界のボクじゃない。今ここにいる僕のことを、忘れないでくださいって言ってるんです!」
最後は叫んでいるように聞こえた。
瞬間、ぶわっと強風が舞い上がり、私は思わず両腕で顔を風から守るようにしながらしゃがみこんだ。
風は一瞬で収まったが、危なかった。〈壁〉でるかと思った。
なにが起こったのか把握できないまま恐る恐る目を開けると、黒い瞳とかち合った。
え、近くない?
いつの間にか真ん前に悟飯さんがいて両腕は相対する腕に開かれ押さえられた。
は、という疑問符がかろうじて口からもれた。
なのにその口はそれ以降動かなかった。
塞がれたのだ。
いきなりのことで働かない頭の中心にぽっと浮かんだのは、やわらかい、ただそれだけの感想。
――は? なんだやわらかいって。
考えたのも一瞬で、がつっと唇越しに歯が当たった。
痛い!
その勢いのまま後ろに尻餅をつくと覆っていたものはなくなり、代わりに目に映ったのは口を真一文字に結んでいる悟飯さんだった。
「へ……?」
呆然とりんごのように真っ赤になった悟飯さんを見ていると、顔にかかっている髪を手で寄せられた。
そしてそのまま頬を撫でたと思ったら、また顔が近づいてくる。
ちょ、っと、待ってくれ。おまえ、なにしてるんだ。しようとしてるんだ?
自由になった左手でとっさに悟飯さんの顔を覆って止めた。「むぐ」って声がしたけどどうでもいい。
「なにをする!?」
叫ばずにはいられなかった。
右手は悟飯さんにつかまれ、左手は迫り来る顔を押しとどめようとするが、馬鹿力!
左肩を押さえ顔も背けて抵抗してるのにコイツめげない!
「そういうのは好きな人としなさい!」
「好きです!」
「はあ!?」
思わず口が開いた。
こいつ今なんていった?
驚いていると左手も取り払われ両腕をつかまれている状態になってしまった。
拘束されている!?
目をぎゅっと瞑り悟飯さんは叫んだ。
「僕はサーヤさんが好きです!」
スキ? スキってなんだっけ? 十五夜に飾る植物の名前か?
「それはススキです! 無理やり間違えないでください! サーヤさんが好きなんです!」
思わず口から出てしまったらしいススキ発言に突っ込まれた。
わかってるよ! あまりの出来事に脳が逃避したんだよ!
でもありえないだろ! 今まででどこに好きになる要素があった!? ないでしょ!?
「絶対気のせいです! 若さゆえの思い込みです! なかったことにしますから離して!」
「嫌です! 好きなんですってば! もう!」
ぐいっと両手をつかまれ下に勢いよく倒された時、もう一度口づけられた。
腕が離されたと思ったら両手で頭を固定され、離れようともがいてもびくともしない。それをいいことに幾度も鳥のように頬や額を啄ばまれる。
抵抗が全くできない。
どれくらいそうされていただろうか。
ゆっくりと離れていった少年の顔は、さっきとまるで別人のように見えた。
「……なかったことになんて絶対しません。ずっと、ずっと忘れないで覚えていてください……泣かないで」
涙は吸取られた。
気がつくと眼鏡は悟飯さんに取られ、それを取り戻せもしない。
いやいやと首を振るが片手で押さえられてまた口づけられた。
――幾度もされていると次第に慣れるものなのだな。
徐々に怒りがこみ上げ、頭の中はどうしてくれようかという思いでいっぱいになる。
さっきからちゅーちゅーと。蛸かお前は!
「やだ! いい加減にむっ……ぐ……いっ嫌い!」
息も絶え絶えにそういうと、嫌いの部分で顔がやっと離れた。
憂いに沈んだ声で「嫌いにならないで」と言われても絆されると思うのか!
「信じられない! 初めてだったのに! ……なんで笑う!?」
さっきまで沈んでた表情は、にへらという笑いに変った。
笑うところじゃねえ! 謝るところだここは! 怒られているという自覚がないのか!
「僕も初めてだからおんなじだと思って……お父さんとお母さんがしてるところ見ても、平然としてたから慣れてるんだと思ってました」
「そんなわけあるか!! 馬鹿じゃないの! 眼鏡返せ!」
「あ!」
悟飯さんから眼鏡を奪いとり、私は岩を蹴って飛び立った。
「サーヤさん!」
「知らない! 馬鹿! 嫌い! ついてこないで!」
そう捨て台詞をはいて、振り返ることもせず私は空を飛んだ。全力で。
風が冷たいとか寒いとかそんなの関係なかった。
いくつも山を越えて川を越えて肩で息をし始めた頃、振り返った。
――ついて来てない。
ほっとした。
一旦冷静になると、頭の中の慈悲の天使がこう言う。
断るにしても、もうちょっと言い方ってものがあったんじゃない?
相手は10歳の子供なのよ? って。
確かに。
いくら告白の経験もない干物女だったとしても、全く信じられなかったとしても、子供の告白にあれはない。
もう少し大人の対応をするべきだったのかもしれない。
しかし、普通あんなふうに襲うか?
10歳くらいの子供が、押さえつけて無理やりキスしてくるものだろうか?
子供の悪戯で済むようなものではなかった。
腕をまくってみるとうっすらと赤く手形がついている。
じんじんと熱を持っているそこが忌々しい。
『ボクと友達になってください!』
言われていたときから感じていた罪悪感は小さく頭の片隅に追いやられ、変わりに広がったのは好きですと言いながら近づいてくる顔だ。
幾度もリピートされる『それ』と共に思い出すのはやわらかい感触。
思い出したら耳の下辺りが発火したように熱くなった。
「あ―――っ! 子供の癖に生意気にちゅうちゅうと! お前にはビーデルさんがいるだろうがああああ!!!!!!」
唇を乱暴にぬぐうとまた飛んだ。
悟空さんの家に行きたくない。
会いたくないと思っていても、チチさんのところに行って朝ごはんの準備とか手伝わないといけないし、帰りの準備も終えなければならない。
どれだけ飛んでも風は熱くなった頬を冷やしていくだけで、動悸は取り去ってくれなかった。
