第二部 人造人間編
第四章 越える線
98 大人
唇がひりひりする。
擦りすぎたのか、なんなのか。
指で押さえても治るわけじゃないし、和らぐわけでもない。
ただその部分が熱くなって、嫌でも悟飯さんの顔がちらつく。
なにが覚えていて欲しいだ。忘れるわけがないのに、なんて勝手な人なんだろう。
腹が立つくらい、悟飯さんのことが頭の中を支配してる。
それでも時間が経てば熱くなった頭は次第に冷めていく。
冷静になって思ったのは、『とても良くない』ことになってしまったんじゃないか、ということだ。
だって駄目だろう。
なんで私が悟飯さんと。
確かに前世では悟飯さんのファンだった。
セル編から魔人ブウ編まで悟飯さんはずっとかっこよかった。
世界中のたくさんの人々が悟飯さんの戦う姿に心を打たれたはずだ。
私もそのうちの一人に過ぎない。
そしてこの世界のうちの一人の英雄として敬っていた。それだけだ。
だから悟飯さんとそんな関係になりたいとかは考えたこともなかった。
もし今、ビーデルさんに会ったらジャンピング土下座する。
そのまま地面に頭をこすり付けて許しを請うだろう。
ファンだったからこそ譲れないものがある。
おこがましい所の話ではない。メシアに手を出すなど許されることではないのだ!
――ならどうする。
いつまでも空をぐるぐる飛んでいるわけにもいかない。
きっともうチチさんが朝ごはんをつくってる。そこに悟飯さんもいるはずだ。
……どんな顔をして行けっていうんだ。
頭が痛くなってきた。ついでに胃もきゅうきゅう言ってる気がする。
「はあ」
こんなときどうしたらいいのかさっぱり思いつかない。
きっとまっとうに前世を謳歌していたら対処方法もわかるんだろう。
しかし私はそういう経験が皆無のまま今世に至ってしまった。
泣きたくなってくる。
腹が立ってるのは冷静になっても変わらないのに、悔しいような気持ちと抵抗できなかった無念さと罪悪感とがグチャグチャに混ざり合う。
なんで今日で帰れるのにこんな思いをしなきゃならないんだ。
私はまた乱雑に口をぬぐって、空を飛び続けた。
+ + + + + + + + + + +
帰るためにはCCに行かなければならない。
けれど私の記憶が確かならば、ベジータさんがいる。
恐怖だ。
もうブルマさんを通じてすべてバレてしまっているだろう。
出会った瞬間にまた殺されそうになるんじゃなかろうか。
びくびくしながら瞬間移動すると、そこにはすでに皆が集まっていた。
「これ予備の眼鏡」
「え、あ、ありがとうございます」
CCに着いた私を待っていたのは、ビックバンアタックではなく好意だった。
肝心のベジータさんは木にもたれてこちらを見向きもしない。
じっとただ黙っているところを見ると、害されはしないんだろう。
殺るならさっさと殺っちゃうと思うんだ。
絶対なにかしら起こると思っていたのに、拍子抜けするほどCCの面々は普通だった。
「未来に帰ってもちゃんとまともな格好するのよ?」
特に女王様はご機嫌麗しく、昨日の様子ではてっきり嫌われていびられるかなと内心冷や冷やしていたが、相手は思ってた以上に大人だったようだ。
「はあ」
「はあ、じゃない! アンタ地味なんだから黒い色ばっかり着ないのよ! ほら、服もつめといたからしまって! あとあれ。食料だから持っていきなさい。――トランクスー! レーダー持ったー? 忘れないでよー!?」
あれ、とは天高く積みあがっているコンテナのことだろうか。
てっきり研究材料かなにかかと思っていたよ。
見上げるとほぼ真上に首を傾けることになる大きなコンテナの塔の真上、そこにブルマさんに呼ばれた人はいた。
コンテナを積んでいたらしい。
昨日切ったのだろうか。
トランクスさんはこの世界に来た時のように短くなった髪を揺らし、ポケットをまさぐる様な仕草の後、慌てたようにCCの中に入っていく。
……これらはこのまま〈かばん〉に入れろってことかな。取り出すの大変だな……。
食料が入っているであろうコンテナは20個くらい積みあがり、ここはどこの倉庫ですか状態の庭で私は〈かばん〉を開いた。
「あの、こんなに貰ってばかりでも悪いので、お返しを……」
真珠のネックレスでもあげようかと思ったのだが、ブルマさんはひらひらと手を振り、パンチーさんは上品に口元に手を添えて笑った。
「別にアンタのためじゃないの。トランクスと未来の私のためのものよ」
「そうよ~。未来のひ孫のためよ~」
「はい?」
「ちょっと、母さん! あっ、あれ持ってきて! ほら、赤い袋の! 忘れてた!」
「赤い? ああ、あれのことね。ちょっと待っててね」
パンチーさんはそそくさと建物の中に入っていった。
なんかひ孫って聞こえたけど、気のせいか?
首を傾げると、ブルマさんが「なんでもないのよ~。気にしないで~」と微笑む。
怪しさ満点なんだけど、問い詰める前にトランクスさんが戻ってきてしまった。
「すみません、しまい忘れてしまって。……手伝いますよ」
わざわざレーダーを見せてポケットに入れたトランクスさんは〈かばん〉に手をかけた。
手伝って貰い、コンテナを入れるために口を広げる。
コンテナの容量的にすべて入るか心配だったけど、成長したおかげかしまえる量が増えたらしい。
すべて〈かばん〉に入るとブリーフ夫妻に拍手された。
そうなるともう、帰るだけだ。
「がんばれよ。お前ならすぐに倒せるさ」
ヤムチャさんはトランクスさんの肩を叩き、武天老師様は「ふぉっふぉっふぉ」と笑いつつひげを撫でる。
パンチーさんに抱えられている小さいトランクスさんに挨拶すると、ぎゅうと指をつかまれた。
かわいくてにやけてしまう。
「パイ、作ってあげてね~」
「未来のブルマによろしくね。かりかりするなよっていっといて」
「ちょっと、どういう意味よ父さん」
ブリーフ博士とブルマさんのやり取りにどう反応を返したらいいのか困る。
指を握られたまま誤魔化すように笑って返事をした。
「また来るか?」
「ええ、無事に人造人間とセルを倒せたら、報告しに来ようかと思ってます」
クリリンさんとトランクスさんの声を聞きながら、つぶらな瞳を見つめる。
「これからがんばってね……優しく育ちますように」
こっそり言い聞かせるように、後半は願いをこめつつ話しかけると、無垢な眼がパッチリと瞬いた。
名残惜しいがゆっくりと指を引き抜き、頭をなでる。
「サーヤ、そろそろ」
「あっ、はい。アカネちゃーん! おいでー! 帰ろー!!」
トランクスさんに促された私は、少し離れたところにいた赤い毛玉を呼んだ。
アカネちゃんだ。昨日チチさんのところに泊まる際、連れて行けないからってそのままブルマさんに預かってもらったのだ。
「あれ?」
呼んだのにアカネちゃんはぽんぽん楽しそうに飛び跳ねるだけでこちらに来る気配がない。
しかもあろうことか悟飯さんに飛びつき、顔に擦り寄ったではないか。
……なぜよりにもよって悟飯さんなんだ。
「アカネちゃんってば! おいで!!」
「う、ダメだって……! お別れなんだよ」
悟飯さんが胸に抱きついているアカネちゃんを撫でつつ歩いてくる。
私はそれを細目で見ていた。
『あれ』から、私は『普通』に悟飯さんに対応してきた。
前世が接客業だったから笑顔で角が立たない様にやり過ごすのは抵抗なく行える。
それこそ朝ごはんを食べるときも極力目を合わせず、声を掛けられたら微笑み黙殺し、CCに来る時も差し出された手をさりげなくかわし、服つかんで瞬間移動してきた。
私は今朝の出来事をなかったこととして扱ったのだ。それが私にできる『対応』だった。
大人げないといわれようが知ったことじゃない。
だって私は許してない。
腕には赤く痕が残ってるし、口だってまだ痛い。
慈悲の天使? そんなものは死んだ。
正直な話、困ったように俯いてる顔を見るたびムカついてくる。
そんな顔をするぐらいならあんなことしなきゃ良かったのに。
ビーデルさんに申し訳ないなとかチチさんに殺されるなとか色々考えてたけど結局、許せるほど私は大人じゃなかった。
そして、それ以上にもう関わりたくなかった。
だからあまり近づきたくないのに、なぜアカネちゃんは悟飯さんから離れないんだ。
来いよ! 飼い主は私なんですけど!?
……お礼だけ言ってさっさとアカネちゃん抱えてタイムマシンに乗り込んでしまおう。
そう思ったのに、迎え入れようと手を伸ばした私に向かって、アカネちゃんは毛を逆立てた。
「!?」
「えっ? こら!」
「あらあ、威嚇してるねエ」とブリーフ博士の間の抜けた声が聞こえる。
「……うーん。置いていきますか?」
トランクスさんは考えてもいなかったことを言い放った。
「お、置いていくって、でも……」
「あれじゃあ抱えられないでしょう? 俺も無理だし。連れて帰るのはちょっと……」
「そういえば小さいトランクスちゃんとは一緒に遊んでくれたけれど、大きいトランクスちゃんには近寄らなかったわね~」
「結構大きいしねえ。入れるとしたら大型だけど、キャリーが……入らないか」
「〈かばん〉には入んないんだっけ。うーん」
無理じゃない?と言わんばかりなCCの面々の視線に抗い、私は再度呼んだ。めげずに呼んだ。
でもまた毛を逆立てられてしまった。
「ずいぶん気に入られたなー悟飯」
「置いてけばいいじゃないか。それくらいじゃ未来は変わんないだろ」
クリリンさんとヤムチャさんが笑っているが、私はぜんぜん面白くない。
一番選んで欲しくない人を選んだアカネちゃんは今、悟飯さんの頬にすりすりして甘えている。
確かにアカネちゃんは猫より大きい。タイムマシン内をぽんぽん飛び跳ねられたら危険だ。
そんな……未来に連れて帰って紅白饅頭として写真とるという小さな願いが……。
確かに二日寝込んでたり、その後あんまり構ってあげてなかったかもしれないけど、なんでそんな短期間で飼い主代えちゃうかな?
生まれてから1年半一緒に過ごした仲じゃないの……それとも誰も彼も虜にしてしまうの?
それが準主人公スキルだというの……!?
たしかに私だって出会ったときはそうだったけどさ!
「サーヤさん。あの、この子……」
悟飯さんがアカネちゃんを抱えながら見上げる。
アカネちゃんはすりすりしながら背中側に移り、肩からちょこんと毛を出している。
お前は唇だけでは飽き足らず、アカネちゃんまで奪っていくのか。
「……そうですね。トーガたちにも見せたかったですけど、仕方ないです。植物しか食べませんからよろしくお願いします」
私は悟飯さんから目を逸らすように深々と頭を下げた。
そしてそのまま挨拶を済ませ、先に行っていると告げて飛ぶと、ぱっかり空いたタイムマシンに滑り込んだ。
来た時と同じようにブルマさんが作ってくれた座席に座ろうとするが……なんてこったい。
お尻が入らない……。
えええ!? 大きくなったから?!
ど……どうしよう……無理やり詰めればいけるか?
四苦八苦しているとトランクスさんがやってきた。
「悟飯さんとなにか……。? どうしたんですか」
「座ろうと思ったら、その」
出られなくなりました。
入るには入ったが、座ったというよりもはまったというほうが正しい気がする。
トランクスさんにそう訴えると、ため息をつかれた。
つきたいのはこっちだよ。
「なんで無理やり入るかな」
そう言いつつトランクスさんは座席を押さえて隙間を作ってくれたが、尻の方が微妙にフィットして出るのきつい。
腰を横に動かして少しずつ移動していると、聞きたくない声が聞こえた。
「サーヤさん! この子大事にしますから! だから……!」
アカネちゃんを背中に引っ付かせたまま飛んで来た悟飯さんは勢いよく喋りだしたが、徐々にその声は小さくなり最終的には全く聞き取れないくらいになった。後ろからの援護射撃のほうがうるさい。
「喧嘩したのかー?」
「悟飯ガンバレー」
「最後につつかせてくれんかのー……!?」
一人だけセクハラまがいなことを言ったグラサンジジイはバチン!という破裂音の後に、悲鳴をあげた。
ブルマさんが叩いたらしい。
クリリンさんの宥める声を耳にしながら私は深く息を吐いた。
「親切にしてくれてありがとうございました。これから先どうなっていくかはわかりませんけど、きっと悟飯さんなら平和にしていけますよ。がんばってくださいね」
なんて当たり障りない挨拶だろう。
にっこり笑いながら言うと、悟飯さんは呆けた顔をした後口を引き締めて頭を振った。
「なんで、そんな普通に……! 僕は!」
わあ! なにを言うつもりだこのメシア!?
私は慌てて悟飯さんの口を手で覆うと、勢いがついたのかお尻はしゅぽんと抜けた。
「犬に噛まれたのだと思うことにしたので! あなたも速やかに忘れるように。好きな子にしたら嫌われますよ」
他の人に聞こえないように小さく言った言葉は思ったよりも低い声だった。
悟飯さんの黒い瞳が潤み、覆った口は震えだす。
――なぜ被害者のような目をしている。
加害者の癖に。
私のほうが泣きたいわ。
「さようなら」
私は覆った手のまま突き放すと、思ったよりも軽い力で悟飯さんは離れて行った。
目を見開いたまま落ちて行く悟飯さんから目を逸らし、傍らにいるはずのトランクスさんに目を向ける。
帰りましょう、そう声をかけようとしたのだ。
しかし、なんだか難しそうな顔であさっての方向を見ている。
こちらに全く注視せず、一体なにを見ているのだろうと視線を追うと、ずいぶん下の緑生い茂る木の横――ベジータさんがめちゃくちゃ怖い顔でこちらを睨んでいた。
あまりに怖かったので反射で目を逸らしてしまった。
「……サーヤ。カレーなんですけど、もうないですよね……?」
そんな中耳に入ってきた言葉は幻聴かと思った。
思わず聞き直したけれど、返ってくる言葉はカレーにしか聞こえない。
いやいや、なんでカレー?
カレーよりも殺る気まんまんにしか見えないあの人を見てなんとも思わないの?
「カレーはないですけど、カレー粉ならあります。それよりもあれ……」
「それでいいのでください」
ばっと手のひらを見せられてその俊敏さに思わず従ってしまった。
別に未来に帰ればあるから構わないけど、カレー粉なんてこの世界にもあると思うよ?
そんなことを口にする前に、トランクスさんは粉の入った瓶を受け取ると一瞬ベジータさんのほうを向き、すぐさまブルマさんのところに飛んでいった。
えっちょっと待って! 置いていかないでよ! 帰り際に殺されるなんて真っ平ごめんよ!
慌てて追いかけようとタイムマシンの縁に手をかけて飛び出そうとした時、下から勢いよくにょきっと黒いものが生えてきた。
「僕、犬じゃないです!」
「うわあ!」
驚いて悲鳴をあげた私は、避けようとして体を後ろに倒した。
そのまま座席に座る形になった体を、押さえるように肩を掴まれる。
衝撃で眼鏡が吹っ飛び、世界はたちまち歪むかと思われた。
しかし顔を上げると悟飯さんの顔が鮮明に見え、怒ったように顔をゆがめているのがはっきりとわかった。――つまり、近すぎる。
「忘れないでくださいって言ったじゃないですか! なかったことにするなんてあんまりだ!」
あんまりなのはお前だ!
覆いかぶさってくる悟飯さんを両手で押し戻そうとするが、子供にしては厚い胸板はびくともせずにそのまま顔が近づいてくる。
その目はまるで獲物を捕らえる獣のように鋭さを帯びていて、私の体は一瞬にして防御体制に入った。
逃れようと座席に縮こまり顔を背けて両腕で覆って。
無駄だと思っても抵抗せずにはいられなかった。
またされる――、そう思ったら総毛立った体は勝手に動いていたのだ。
指が、小刻みに震えているのが目の端に映る。
置かれた手が、ぎゅっと力を込めて肩を掴んだとき、恐怖心が一線を超えた。
「あ!?」
その次は「く」だった。
パキンパキンと鳴る音のほかに聞こえる声は次第に離れ、ついには肩に置かれていた手すら離れていった。
そこでようやく覆っていた腕を下げると、私と悟飯さんの間には透明な〈壁〉が築かれていた。
無意識に作ったのだと思う。叩けば壊れてしまうもろい〈壁〉でどうやって撃退したのかいまいちわからないが、たぶん驚いて後退したのだろう。
「ずるい……そんなの……っ」
泣いて縋るようなか細い声だった。しかし、私にとってそんなことはどうでもよかった。
頭の中にあるひとつの椅子にはいまや恐怖しか座っていない。
今まで感じたことのない種類の恐さに、わけもわからず体が震えだし、思わず小さく歌った。
それによって〈氷礫〉が悟飯さんに向かって飛んでいく。
避けようとしてか悟飯さんの気配が遠のく。
もはや目で見て当てているわけではなかった。
気配のあるところに向かうようにさらに〈氷礫〉を落とす。
それはトランクスさんが戻るまで続き、入れ替わりにタイムマシンに足を踏み入れたその人は焦った声で言い募った。
「なにしてるんですかサーヤ! 氷漬けにするつもり……」
「もういいですか!? 帰りましょう! 早く……!」
「え、あっ」
そのまま肩を掴みトランクスさんを座らせ、戸惑いを含んでいる声を無視して急かした。
ブルマさんが作ってくれた座席にひざ立ちになり、神経を尖らせると悟飯さんの気配は地に落ちた鳥のように動かない。
たぶん〈氷〉が固まって身動きが取れなくなったんだ。
この間に早くこの場から去りたい。
その一心で訴えると、トランクスさんは不思議そうに頭を傾けた後タイムマシンを起動し始めた。
透明な蓋が降りきるそのときに、悟飯さんの気配が上昇してくるのがわかった。
〈氷〉から抜け出す時間が短い。それは単純に強さを表す。
私はトランクスさんの上着を掴んで震えた。
「? サーヤ? ……あ、悟飯さん」
びくりと肩が震えた。
「帰りますから、あの、危ないので離れて……悟飯さん?」
「いいなあ。トランクスさんは。うらやま――」
最後まで言い終わる前に蓋はぴっちり閉じられ、振動が強くなる。
「あっ!! サーヤ!」
なに、と口にする前に爆発的な振動に襲われ、驚いて上着を掴んでいた手が離れる。
すかさずそのまま引っ張られ、危うく舌を噛むところだった。
「体縮めて! 蹴らないでくださいよ!」
言われたとおりに丸まろうとするがうまくできない。
打ちあがるのは宇宙船と一緒で、体が持っていかれる感覚自体は特になんともなかったが体勢がまずかった。
け、蹴りそう。
つかまれている腕は痛いし、見えない上に振動が強すぎて空間を認識できない。
どこに何があるのかわからないままタイムマシンが上空まで打ち上がり高度を一定に保つようになったとき、反動で体が跳ねた。
「ううっ!」
浮遊感を感じたと思ったら、つかまれていた腕を再度引っ張られ、回転させられた。
ぽすん。
そんな音がしっくりくるような動作で、私はそこに座った。
ほっとするのと、声が聞こえるのは同時だった。
「危なかった……。壊れるかと思った……」
声はずいぶん近く、ため息が右耳後ろをかすめてこそばゆい。
ひょっ!
危うく変な声が出るところだった。
それもそのはず。
前方にはタイムマシンの操作盤とメーター。お尻にはちょっと硬めの骨の感触、背中は言わずもがなあったかい。おまけにお腹に太い腕。
トランクスさんの膝の上に座っている――、認識すれば体は固まったように動かなくなった。
「ちょっと避けて……ああ、皆手を振ってますよ」
左側に避けるとトランクスさんの首が前方に伸びる。
みんな……?
ぼやけた視界では下界なんて全く見えない。……見えなくてもよかったのかもしれない。
ウウウウンという低い音が徐々に高くなっていく。
「悟飯さんと喧嘩したんですか?」
トランクスさんは視線を固定したまま手を振って声をかけてくる。
喧嘩なんてしてない。襲われたのだ。
でもそんなことは口が裂けてもいえない。
「そ、そんなところです。ちょっと我慢ならなかったので」
「〈氷〉出すほどですか……」
私の唇がまた奪われるところだったのだ。
〈氷〉くらい作るだろう。
そう思ったときには既に世界は墨汁をぶちまけたような暗闇に包まれていた。
「次会ったら仲直りしてくださいね。あれじゃあ可哀想だ……?」
視線を目の前の電子板に移すとそこだけが明るく、中でもちかちかと一定に点滅する光は煩わしい。
それに目を細めて私は唇を噛んだ。
二度と来るつもりもなければ二度と悟飯さんに会うつもりもない。
さっきのまなざしは思い出すと体が震える。
会ったらまた……いやだ、そんなの。
それにそれだけじゃない。
唇や頬を掠めるやわらかい感触。
それは忘れようにも忘れられるものではなかった。
できることならもう二度とあんなことがあってはならない。
だって、おかしいじゃないか。
悟飯さんの相手は私じゃない。ビーデルさんでなければならないのに。
一体どこで間違った?
「サーヤ、眼鏡は? 落としたんですか?」
「え……えーっと、ベジータさんが怖くて、びっくりして落ちちゃったんだと」
「ああ、あれか……。あれはもう解決しましたから大丈夫です。それより眼鏡……床にはないようだけど」
トランクスさんの声に「どこに行ったのかなー、でも予備あるから」と笑って誤魔化すと私は〈かばん〉を開いた。
――きっと、悟飯さんに肩を押された時、地面に落ちたんだ。
もう、と息を吐くトランクスさんに笑って謝りつつ、私の頭の中は悟飯さんのことばかりぐるぐると回っていた。
それを振り払いたいのにできないまま、新しい眼鏡をひとつ取ってかける。
ぼやけた視界が晴れても、目の前は漆黒の世界しかなかった。
